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坐禅(ざぜん)
2012.02.21|iwamura
実家は臨済宗妙心寺派であるにもかかわらず、坐禅というものをしたことがなかった。
「坐禅を一緒にしませんか。」
尊敬する友人からの誘いに乗ったのは、幼いころ父と坐禅ごっこをしたころの、なんとなく、少年時代と申しますか、チェリーボーイの純粋を取り戻せるのかもしれない、と逝った程度の、甘い考えからだったように、思います。
幕末は、江戸城無血開城の立役者、かの山岡鉄舟先生の道場。臨済宗天龍寺派。
すり減った木目が鈍い光を放つ、歴史の趣きを感じさせる道場である。
「新しいお二人。こちらへ。」
周りの先輩方が私服から道着に着替える中、我々は離れた場所へ座らされた。
「まず、光物(ひかりもの)は外してください。ベルトもです。靴下を脱いで。
スーツ、ジャケットは着たままで構いません。ネクタイは外してください。
それでは座って。足を組んでみましょう。
そうです。片足が乗るだけでも構いません。
結構きついですか。初めて。そうですか。
最初痛いですけれども、我慢してやってみましょう。最初は皆そうですし、今も私たちも痛いですから。
肚に力を入れるイメージ。
そう、呼吸は吐く方を長く、
いーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(約40秒)
ち
にーー、
これぐらい。
目はななめ下を向いて半目で。
ただ、半目が理想ですが、まぶたが重くなるので普通に開いててもらった方がいいです。
目を閉じると、逆にいろいろ想像してしまうので、目は閉じないでください。
胸は張って、肚に力を入れる。
首は真っ直ぐ立てる。そしてアゴを引く。鼻とおへそ並んでるイメージ。
そうです、いいですね。頭のてっぺんからお尻の穴までまっすぐ一本の線が通っている感じ。
そうです。
しかしだからと言って、
坐禅のやり方に、厳密な決まりがあるわけではありません。
その人それぞれに合ったやり方があっていいと思います。
ただ、一つだけ、坐禅をするときに、必ず守っていただきたいことがあります。
「決して動かないで」ください。
いいですね。
以上です。
禅とは、「瞑想」ではありません。
『集中』、です。」
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ガチであった。
子どものころから「落ち着きがない」では折り紙つきだったこの自分に、
はたしてそんなことができるのか。
しかし、この期に及んで、もう男として逃げられない。
コーコーを卒業してからもたびたびあったかもしれない、
「これはもう避けられないな、やるしか無いな。」
という、ケンカや物事に正面から向かい合う際の、タタカイに向けた覚悟の気持ち。
座って1分であの気持ちを飲みこまざるを得ない状況になった徹夜明け早朝。
「座禅で寝られるかも。」
という、今にして思えば極めて愚しい考えは、一瞬で光の彼方へ消し飛んだ。
合図の音ではじめ。
誰ひとり動かない。
時折、床のきしむ小さな音だけが、しかしそれでも道場の空間すべてを支配する。
自分より少し先にある床の木目を見る。
瞑想ではいけない。「集中」する。
何も考えていないようで、しかし実はしっかり考えているという不思議な精神の時間が訪れる。
やがて知らないうちにぼやけていた床の木目がハッキリ見え始める瞬間と、突然我に返る自分。
我に返り思考を開始することを恥じる自分。
歩いていらした先生が自分の前に止まる。
合掌し、腰を折り、床に、手と額をつける。
右肩から左腰へナナメに。
左肩から右腰へナナメに。
入魂の警策(きょうさく・けいさく)が打ちすえられる。
背中の感覚を噛み締め姿勢をもとに戻す。
そして、からだを決して動かさず、瞑想せず、「集中する」タタカイの時間が、再び訪れる。
40分を、2回(線香2本分)。
逃げのきかない極限状況に対する気合の持続と覚悟。それらを高めるための集中。
完全に格闘技のそれであった。
いやはや参りました。
会場の先輩たちは、一様に
「また会いましょう。」
「続けることが大切ですよ。」
とおっしゃる30年、40年クラスがザラ。
当時の志士たちと同じように、お国のお仕事を熱くされている方も多い。
ガチでした。
これはすごかったです。
体験してみるべきだとは思いますが、続ける、ということについて、自分は考えないといけないですよね。