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レジェンドがまた1人逝く。
2012.05.07|☆KAYA☆
月曜日は☆KAYA☆です!
スターが誕生すれば、どこかでまた1人スターが逝くのだけれど、
ここ数年早すぎる死が相次いでいるように感じます。
先日届いた訃報はこちら。
Beastie BoysのリーダーMCAことアダム・ヤウクです。
米ヒップホップ・グループ、ビースティ・ボーイズのMCAことアダム・ヤウクが、現地時間の4日朝に地元ニューヨークにて死去したことが明らかになった。 享年47。2009年7月に左側の耳下腺にがん性腫瘍が見つかったことを発表し、闘病生活を送っていた。
ビー スティ・ボーイズのオフィシャルサイトは、「ビースティ・ボーイズの創設メンバーで、チベタン・フリーダム・コンサートを主催したミラレパ基金や映画配給 会社オシロスコープ・ラボラトリーズの創業者でもある、ミュージシャン、ラッパー、活動家、監督のアダム・“MCA”・ヤウクが、3年近くにわたるがんと の闘いを経て、今朝、地元ニューヨーク・シティで亡くなったことを深い悲しみとともにお伝えします。47歳でした」と始まるメッセージと共に、MCAの写 真を掲載した。
どこよりも早く訃報を伝えたのは、ビースティ・ボーイズと最初にレコード契約を結んだラッセル・シモンズが共同創始者を務 める「デフ・ジャム・レコード」が運営するWEBサイト「Global Grind」。そこには、「グローバル・グラインドからとても悲しいお知らせです。我らがヒーローの一人、ビースティ・ボーイズのアダム・ヤウクまたの名 をMCAが、がんとの長い闘いの果てに今朝亡くなりました。アダムのご家族とビースティ・ボーイズのクルー全員のためにお祈りを捧げます」と書かれてい た。(引用;MTV)
曲を聴いた事が無くても、グループ名は知っている人も多いだろう。
ヒップホッップカルチャーを語る上では、無くてはならない存在だ。
NYで生まれた”ヒップホップ”という言葉や、ラップといえば
それまで黒人の物とされていた。
それを「白人だってかっこよくラップ出来る!」と知らしめたのが
ビースティ・ボーイズだった。(以後しばらく白人ラッパーは現れない。)
元々ロックバンドだった彼らは他のラップグループとは異なり、
楽器の演奏も得意としていた為、ロックテイストの楽曲が多かった。
1964年にニューヨーク・ブルックリンで誕生したMCAは、高校時代に独学でベースを学び、自身の17歳の誕生日パーティのために ハードコア・パンク・バンドを結成。それが後に世界的な成功を収めたビースティ・ボーイズの始まりだった。そのハスキーな声と簡潔なラップ・スタイルで、 MCAは3人の中でも目立つ存在だった。(引用;MTV)
彼らがデビューすると、あっという間にラップミュージック史上初の
ビルボード1位という快挙を成し遂げた。
オフィシャルサイトによると、MCAとマイケル・“マイクD”・ダイアモンド、アダム・“アド ロック”・ホロヴィッツの3人からなるビースティ・ボーイズは、キャリアを通じて累計4000万枚のレコード・セールスを記録している。これまでに4枚の アルバムが全米ビルボード総合アルバム・チャートを制覇し、86年のデビュー・アルバム『Licensed to Ill』は同チャート史上初めて首位を獲得したヒップホップ・アルバムとなった。過去にグラミー賞を3度受賞しているほか、98年の「MTV Video Music Awards」では功労賞にあたる「MTV Video Vanguard Award」を受賞。09年5月にさいたまスーパーアリーナにて開催された「MTV Video Music Awards Japan」では「MTV Street Icon Award」を受賞し、3人揃って来日してトロフィーを受け取った。
09年にはアルバム『Hot Sauce Committee, Part One』のリリースが決定していたが、MCAが治療に専念するために発売は無期延期となり、予定されていた全ての公演がキャンセルされた。3人は11年に アルバム『Hot Sauce Committee, Part Two』を発表したが、ファンが待ち望んだツアーは行われなかった。今年4月には史上3組目のヒップホップ・グループとしてロックの殿堂入りを果たし、健 康上の理由で欠席したMCAに代わってマイクDとアドロックが受賞スピーチを行った。(引用;MTV)
現在では、世界中でラップミュージックが親しまれているが、
ビースティの要に演奏し、ロックな白人ラッパーは今だ現れない。
ご冥福をお祈りします。