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知覧特攻平和会館
2012.05.10|iwamura
若者の自殺が増えているようです。
就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している。
2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。
※読売ON LINEより抜粋
。。。
いずれ100%の確率で逝くんだから、死に急ぐこともないだろうに、というのが、小生の正直な感想です。
先だって、5月3日、知覧特攻平和会館へ伺いました。特攻で散った若者たちの合同慰霊祭が催されたためです。
子犬と戯れる5人の少年兵(第72振武隊員)
死を目の前にして笑顔なのは見てるほうとしては感無量の境地である。彼らの心中を悲しい表情をした子犬が物語っている。彼らは二度と帰ってくることはなかった。
※特攻の真実と平和より抜粋
宿は富屋旅館さんにとりました。
この宿は「特攻小母さん」として著名な鳥濱トメさんが、若い特攻隊員を、それこそ自分の着物を質に入れてでも、食わせて励ました歴史ある「富屋食堂」が形を変えて存続されているものです(今はお孫さんが経営)。
重い言葉です。
丁度合同慰霊祭ということで、特攻隊員のご親族の方とも相部屋にさせて頂きまして、貴重なお話の数々を伺うことができました。
その中で、元特攻隊員であった板津忠正先生ともお部屋をご一緒することができました。
先生は特攻隊員に選抜され、知覧を飛び立ったのであるが、搭乗機故障により帰還。
しかし、同日飛んだ仲間は全て大空に散り、「生き残る羽目に(板津先生談)」なる。以来、「何度も自殺しようと(同談)」されるが、そうではない、大空に、海に散った仲間たちのことを伝えることが使命であるとお考えになられ、仕事を中途退職し、特攻資料、隊員写真を集め始める。
名古屋市役所を辞め、3年で10万キロクルマをとばした。
ご遺族宅を訪問し、生前の仲間の話を伝え、位牌に手を合わせ、遺影を撮影し、遺書を集められる日々。
’95年、実に20余年の歳月をかけ1036名全員分の遺影を完全収集。
知覧特攻平和会館初代館長であらせられます。
※遺書と遺影が所せましと並ぶ知覧特攻平和会館。
遺書はみな、「お母さん行ってきます」「家族をよろしく頼みます」といったものばかりで、涙が止まりませんでした。知覧特攻平和会館、ハンカチというか、タオルが必須でございます。。。
死が当然であった特攻隊員が、生き残ったことの精神の呵責がどれほどのものか。これは体験した者でないとわからんでしょうね・・・・・・。あの時故障さえしなければ。やり切れない思いに、何度眠れぬ夜を過ごしたか。
生き残った申し訳なさから、私は復員後すぐに自分の隊のご遺族を捜し歩きました。皆さんに謝りたかったのです。
正直言って、最初は怖かった。「なんでおまえだけ生きて帰ってきたのか!」と責められるような気がしてね。ところが皆さん、「よく訪ねてきてくれた」と、わが子が帰ってきたかのように喜んでくれました。
当時は、特攻に行くことを家族に知らせる隊員はほとんどいませんでした。言えば悲しむでしょう。
だから家族のもとには、ある日突然戦死の通知だけが来る。
自分の息子や兄弟が、いったいどこから飛んでいって、どういうふうに最期を遂げたのか。それを知りたいと思うのは、肉親の情として当然なことです。それを私が代わりに伝えることで、非常に喜ばれたのです。
その後私は、ご遺族捜しで日本中を行脚するのですが、最初はそんな大それたことなど夢にも思っていませんでした。だけどご遺族の方の喜ばれる姿を見るたびに、自分は特攻隊の事を伝えるために生かされたんじゃないだろうか、と思うようになったんです。
特攻がいいか悪いで言ったら、悪いでしょう。
どんなに追い詰められていたとしても、一番重要で一番の資産である「ひとの命」が毎回失われるという攻撃方法が、効率的だとは決して思えない。戦略的に考えても絶対にマイナスです。10代、20代という、国を背負う若者が「確実に死ぬ」という作戦は愚かだった。
ただ、それでも。
彼らがお国の為、言い換えれば、自分の家族や両親、子どもたちのために、我が国の美しい未来にその命を託して、突っ込んでいった、諸先輩方のその心意気というか、生き様、死に様には、首を垂れるほかないと思います。
その滅私奉公の思いは、尊かったと、自分は思います。
翻って、もちろんつらい日々はあるだろうけれども、だからと言って、親からもらった、国の諸先輩方に支えられ、ここまで育てて頂いた命を、無下に捨てることは罪悪であると考えます。
もちろん、自分も自殺を考えたことがないわけではない。
それでもしかし、自殺にせよ、寿命にせよ、いずれ死ぬなら、死ぬまで、この命、愛する人のために使いたいと思うだけです。
この写真は、私の部隊が出撃するとき水盃を交わす場面で、中央の一番小さいのが私です。
これで一人前になった、お国のため家族のためになるんだという満足感がありました。
私は20歳でしたが、当時の仲間は皆そうだったんですよ。私らは特攻にいくときに靖國神社に当然入るものだと思って「それぞれに出撃してあちこちで体当たりしても、最後は靖國神社の鳥居のところに集まって一緒に入ろう」と言い交わしていました。
ただ自分たちが死んだあと、日本がどのようになっていくのか、そのことだけが心残りでした。
そのため、私は、靖國神社に参拝するときはいつも「今、日本はこうなっています」と報告しています。
でも、最近は非常に心苦しい時がある。今日の世相を靖國の御霊にどう報告すればいいのか、つらい気持ちがします。
最後になりましたが、涙が止まらない動画がございますのでリンクを張っておきます。
諸先輩方が夢見た「未来」が、今の日本の姿です。
今、我々はもう一度、「命」や「国」や「愛」というものを、考え直す必要があるかと思います。