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糸川英夫先生の名言につきまして
2012.07.24|iwamura
H2Bロケット3号機における、「こうのとり」打ち上げ成功おめでとうございます!
国際宇宙ステーション(ISS)への物資補給機「こうのとり」3号機を載せた国産大型ロケット「H2B」3号機が21日午前11時6分、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。こうのとりは約15分後、予定軌道に投入され打ち上げは成功した。こうのとりは約15分後、予定軌道に投入され打ち上げは成功した。順調に行けば27日、星出彰彦さん(43)らが滞在するISSに到着する。こうのとりは大型バスに匹敵する大きさで約4.6トンの物資を搭載。ISS日本実験棟「きぼう」でメダカなどを飼育する水槽や、きぼうから放出する日米の超小型衛星5基のほか、星出さんら滞在飛行士の食料や日用品などを運ぶ。ISS到着時は星出さんらがロボットアームでつかみ、28日に取り付けを完了する見込み。不用品を積んで9月上旬に離脱、大気圏に再突入して燃え尽きる。
youtubeより
「大気圏に再突入して燃え尽きる」
日本ぽい幕の引き方でございます。今回ミッションで放出される小型衛星たちも、大気圏突入の際燃え尽きる設計だそうな。。。
さて、ロケット打ち上げは、初めて見るとものすごく感動するみたいですね。
小生の友人でロケットの「ロ」の字も知らない友人も
「ロケットは地球から宇宙に飛んでゆくものだということが、見ていてわかった」
「ロケットって、人間ってすげーなと思って涙が出た」
等と申しておりまして、やはりこれは百聞は一見にしかずの世界なのだと想像します。
さて、そして日本で初めてのロケット発射に成功したのは、そう、惑星イトカワの「糸川英夫」博士その人です!
1964年(昭和39年) 東京大学宇宙航空研究所発足
7月 L(ラムダ)-3-1打上げ、高度1,000kmに到達。1965年(昭和40年) Mロケット1段目モータ燃焼試験(能代ロケット実験場)。
6月 科学衛星計画発表(日本学術会議宇宙空間研究特別委員会)1966年(昭和41年) 9月 L-4S-1打上げ失敗
12月 L-4S-2打上げ失敗1967年(昭和42年) 3月 東京大学を退官。組織工学研究所を設立し、これを機に宇宙開発から引退する。
4月 L-4S-3打上げ失敗
漁業者との交渉のため、翌年9月までロケットの打上げを中断。1969年(昭和44年) 9月 L-4S-4打上げ失敗 1970年(昭和45年) 2月11日 L-4S-5号機で、日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げに成功。
注目すべきは、特には「日本海側の打ち上げに限界を感じ」て、発射場を日本海から種子島へ移してから、1966年~1969年までの失敗の連続と、それでもあきらめなかった彼の熱意でしょうか。
今でさえ、小惑星の名前にもなり、はやぶさ産みの親、としてご高名な糸川先生でいらっしゃいますが、実績をつくろうともがき奔走する苦しい時代が、大先生にもあったのだな、と思うと、少し勇気ももらえる、そんな夏の日でございます。
さて、糸川先生生誕100周年の今年、以下、糸川先生の名言で締め、本日も業務に励みたいと存じます。
「人生で大切なのは、
失敗の歴史である。」
これは、「失敗から学べ」とおっしゃられているのでしょうね。
それでは糸川先生のベストセラーからも、学んでしまいましょうか。
40年前当時で100万部売ったというのだからホンモノです。
そして今読んでもまったく色褪せない「ロケットを飛ばす人の考え方の本」です。
というか、国力維持拡大のためには移民受け入れではなく、逆に若者は世界へ打って出ろ!日本人口の半分は海外で働くべきだ!等と当時から言い切ってしまう、弱小国家日本における人口政策への提言と、この本全体を通して流れる、その極めてスマートかつマッソーな理論が、まさに「逆転の発想」であり、男だって濡れてしまうのでございます。
そうなんですよね、糸川先生。
「目標に向かって、
一段ずつ階段を上っていく上で、
いちばん肝心なことは、
必ず、最初の一段を上るということである。
そしてまた次に一段上るということである。」
最初の一歩を勇気をもって踏み出しつつも、
やっぱり一歩一歩、大事に進んでいきたいと存じます。
「自分にできること」よりも、
「世の中が求めていること」に
挑戦しつづけたほうが、人生も楽しい。
暑くて毎日大変ですが、今日もヤるしかなさそうですね。
励みます。