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「お母さんありがとう」~ソチオリンピックの葛西紀明選手について~
2014.02.18|iwamura
仕事ばかりしてテレビを見ていない諸氏(時間が朝方なのでLIVEで見れないすよね)へ、オリンピック前半を振り返っての「個人的に感動した動画」を3本。
まずは「パリの散歩道」(男子個人SP)でしょう。これはすごいです。
実況アナウンサーの「完璧!」「つよい!」が魂の叫びかと思います。
このヒト本当に「少女マンガに出てくる主人公が好きになる男子」みたいだなと思います。
お母さんと(2日目フリーの)試合後に反省会をしたそうですが、お姉ちゃんの献身もその陰にあったようで。。。
やはり家族の支えに感謝と申しますか、「お母さんありがとう」なのだなと。
そして、「お母さんありがとう」でもう一人忘れてはならないのが、41歳7度目のオリンピック、「レジェンド」葛西紀明選手。
まず個人のジャンプ(×2)。これは2度目のジャンプでメダル確定の瞬間が熱いです。
続いて団体。
原田さんの愛あるコメントと相まってこれも感涙動画でありますね。
20年間オリンピックを闘い続けた葛西選手。
妹さんは’94(原田さんのアレで団体銀)リレハンメルのあと、難病を押して空港まで迎えに来てくださったみたいで、「次は金だね」と。
’98の長野は怪我をして、いわゆる「(葛西選手不参加の、日本の団体金メダル獲得後に)泣いてホテルまで歩いて帰った」という悔しさが、今の自分の原動力なのだ、と語る葛西選手。
葛西選手のお母さんのお手紙の話も有名ですが、上記妹さん、またお母さんのお手紙の件、過去のインタビュー記事を発見いたしましたので、下記に抜粋します。
―――ジャンプを始めたきっかけは?
(葛西)小学3年生の時、ジャンプをやっていた友達に誘われてやってみたんです。
負けず嫌いなので、友達よりも跳んでやろうと思ったら、いきなり抜いてしまいました。
―――天性の才能が見出された。
(葛西)でもジャンプという競技はすごくお金がかかるんです。
必要な道具は全部先輩のお下がりを使わせてもらってやりました。何しろうちは、米も食べられないくらい貧乏だったんですよ。
電話も引けないし、スーパーにはいつもつけ払いで借金だらけ。
いつかオリンピックで金メダルを取って家を建ててあげる。母にはそう約束したんです。
―――世界トップレベルの実力は、弛まぬ猛練習の賜物でしょうね。
(葛西)もちろんそれもあります。
しかしそれ以上に、自分を支えてくれる人たちの存在が大きかったですね。
実は、94年のリレハンメル五輪の前年に、妹が再生不良性貧血という重病にかかりましてね。
辛い治療を何度も受けたりドナー探しで大変だったんです。
妹のためにもぜひ金を取りたいと思っていたんですが先ほどお話ししたように銀に終わってしまった。
でも、妹は病気をおして千歳空港まで迎えに来てくれましてね。
誰にも触らせずにおいたメダルを、1番に触らせてあげたんです。
―――喜ばれたでしょうね。
(葛西)「ありがとう。次は金だよ」って逆に励まされました。病気の妹に比べれば、自分は何も辛いことはない。そんな妹を支えに、98年の長野五輪へ向けて気持ちを奮い立たせました。
ところが94年の11月、ある大会で転倒して鎖骨を折り、しばらく跳べない状態が続いたんです。私はブランクを埋めるために通常なら3百本跳べば十分といわれる夏に、900本跳んで再起を賭けたんです。
―――通常の3倍の猛練習を。
(葛西)しかし、それが逆に災いして、その冬のシーズンで今度は着地の時に足を骨折してしまったんです。
それから1年半くらい記録と遠ざかっていたんですが、そんな折に実家が放火に遭いましてね。
母が全身火傷で病院に担ぎ込まれたのです。
―――ああ、お母様が全身火傷に。
(葛西)なんとか一命は取り留めたんですが、火傷は全身の70%にも及んでいて、炎の熱で肺も気管も焼けていました。
何度も皮膚移植を繰り返したんですが、結局97年の5月に亡くなりました。
後から入院中に母の書いた日記が出てきましてね。
―――そこに書かれていたことは。
「いまこの時を頑張れ。
絶対におまえは世界一になれる。
お前がどん底から這い上がってくるのを楽しみに待っているよ。」
と。
いまでも大事な大会の前にはこの手紙を読み返します。
見るたびにものすごく大きな力をもらえるんです。
※こばちゃんのフリーブログより
我が家もまだ立てない坊主がいるのですが。
自分は難病でもないし、家も火事になってないけれども、それでも子どものためにどこまで文字通り支えられるか、というところが、家族なのだと思いますし、「お母さんありがとう」なのだと思います。
ソチオリンピックの宣伝動画ですが、ちょっといいです。
お袋ありがとう。
本日もお仕事を、全力で頑張りたいと思います!