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南アフリカ共和国におけるワールドカップ開催について。
2010.06.10|iwamura
さて、南アでのワールドカップ開催について、やれ治安がどうだとか、各種タブロイド誌が書き連ねているのを目にするが、まあハッキリ言って、残念である。
世界が一つになるイベントを前にし、水を差すようなことを言いすぎてはイカン(インフォメーションの域を超えたネタ報道にするなとだけ言っておく)。
さて、南アワールドカップと言えば、もちろん明日11日開始の大イベントであるが、当ブログにおいては、1995年に開催された南アワールドカップにも注目したい。
ラグビーのワールドカップです。優勝国は、開催国、南アでした。
30代の小生は、中学時代の歴史、地理において、「アパルトヘイト」という言葉を習いました。
南アにおけるネイティヴは、ビーチでもバスでも、至るところで隔離されていた時代がリアルにありました。
1989年ごろのダーバン市内の海岸で掲示された非白人立ち入り禁止の看板。英語、アフリカーンス語、ズールー語で併記
撮影・提供:John Mullen
中学生時代の小生は衝撃を受けるとともに、当時貿易を積極的に行っていた日本国民が「名誉白人」という不名誉な栄誉を与えられていることに関しても、フクザツに気持ちが悪く、申し訳がなかった。
しかし、1994年、民主活動指導者だった、「ネルソン・マンデラ」氏が、30年の牢獄生活から抜け出し、選挙にてネイティヴ初の大統領に選出されました。
当時は丁度ワールドカップ前年。南アはもともとラグビーは強かったのですが、白人たち主導による「スプリングボクス」というチームがあったんですね。アパルトヘイト時代の国旗そのままのユニフォームデザイン。
もちろん、ネイティヴは猛反対。「スプリングボクスなんか撤廃だ!」「人種差別の象徴を残すな!」
当然の論理。
でも、マンデラ大統領、チームの存続を決定します。ユニフォームも代えない。
「白人の愛するものを奪ってはならない。彼らはもはや敵ではない。仲間である。彼らを許し、今は、国を一つにする時なのだ。国を一つにする為には、奇跡(優勝)が必要だ。」
彼の掲げたスローガン。
「ONE TEAM ONE COUNTRY」
そして、奇跡は起こります。
上記「インビクタス~負けざる者たち~」監督はクリント・イーストウッド。主演はモーガン・フリーマン(ネルソン・マンデラ大統領)。ミリオンダラー・ベイビーの黄金コンビ、戻ってきました!
昨今のイーストウッドさんは、硫黄島といい、グラン・トリノといい、いい映画をつくるなあ。
インビクタス、見逃した諸氏へ朗報、7月11日DVD発売です。
「国家」「努力」「友情」「スポーツ」「勝利」「ドキュメンタリー」
人類にとってロマンチックな要素が満載の映画です。涙が、止まらなかった。
サッカーワールドカップに合わせ、南アフリカ共和国に思いを馳せてみるのもよいでしょう。
そして、今いろいろドタバタしている「俺たちの国家」も、今回のワールドカップで、一つになれたらいいな、と思っています。
動画で見るワールドカップの歴史
2010.05.25|iwamura
と、いうことでサッカー、やっちまいましたね。
サッカー・キリンチャレンジ杯2010(24日、日本0-2韓国、埼玉スタジアム2002)うつむき加減に話し始めた中村俊が、ぽつりと漏らした。「今まで積み上げてきたものが、消えつつある…」。強みだった中盤とサイドとの連動が無残なまでに機能不全に陥った。
運動量を支えに、素早いパス回しで相手を崩すという岡田監督が掲げてきたコンセプトは、本番直前になって完全に形骸(けいがい)化。「切り替えてやるしかない」と話す中村俊の目はうつろだった。
※sanspo.comより抜粋(部分略)
いや、中村センシュ、「切り替えて~」は賛成だが、積み上げてきたものが「消える」ってことはナイでしょう。
なに言ってんだ?
小生は元気がない時、youtubeで探してきてよく見る動画があるのだが、今日はそいつを中村センシュ(日本国民)は見直すべきだな、と感じたのでアップしておきます。
まず一本目は、ドーハの悲劇だな。1993年、小生は中3であった。当時サッカー少年だった小生だが、ピッチに立ってもいないのに(選手本人たちでもないクセに)、立ち直れないぐらい、ショックだったことを覚えている。
しかし、立ち直るんだなあ、ニッポンは。
出たなあ、このシュートにアドレナリンが。
「やったーーー!!!オカノーーー!!!」
このときは、小生、高3です。
セイシュンとともにあります。日本代表ワールドカップ。
そしてほら、下記のように見てみても、やはり「積み重ね」「それが堂々とした歴史」だと思うのです。
☆「掴めそうで逃した」(1994年アメリカ大会)~予選敗退
☆「魂は置いてきた」(1998年フランス大会)~リーグ戦3位
☆「ホーム開催の宴」(2002日韓2国開催大会)~ベスト16
☆「これが実力か?」(2006年ドイツ大会)~リーグ戦4位
「4大会連続出場」は大きすぎるくらい大きい功績。16、17、18回大会連続って、サッカー後進国ながら、「今まさに伸びてる」「今が日本サッカーの夜明け」だって理解で間違ってないと思う。
何事も、「積み重ね」ですなあ。「積み重ねが消える」なんて国の代表が言わないでくれ!
歴代フォーメーション動画、お送りして〆ます。これが、輝ける日本サッカーの歩みだ!魂が震えるぜ(いや試合思い出して泣きますからこれ)!
さあ、本日も、我々ひとりひとり、積み重ねてゆきましょう!
がんばれニッポン!!!
木村拓也さん訃報~若者へのメッセージ2010春。
2010.04.08|iwamura
昨日7日、元巨人軍の木村拓也さんが急逝されました。
ご冥福をお祈りいたします。
2日に行われたプロ野球・広島―巨人戦(マツダスタジアム)の試合前にくも膜下出血で倒れ、広島市内の病院に入院していた読売巨人軍の木村拓也(きむら・たくや)内野守備走塁コーチが7日午前3時22分、死去した。37歳だった。
宮崎南高から1991年ドラフト外で日本ハムに入団。94年オフに広島、2006年途中から巨人に移籍した。もともとは捕手だが、内、外野をこなし、打者としてはスイッチヒッターに転向。プロ19年間で投手以外のすべてのポジションを守るなど、球界を代表するユーティリティープレーヤーとして2004年アテネ五輪にも出場し、銅メダル獲得に貢献した。09年を最後に現役を引退。今季から巨人の内野守備走塁コーチに就任したばかりだった。
※yomiuri on lineより抜粋(部分略)
スイッチヒッター(右でも左でも打てる)であり、全てのポジションを経験する。
ものすごい器用で成功した方に見えますね。でも、苦しい時代があったみたいです。
今年の3月4日、巨人軍に入団した選手たちへ向けた、新人研修の際、彼が語った熱きメッセージをウェブサイトで見つけましたので、以下にご報告。
桜舞い散る春。少し長いですが、とても熱いです。サバイバーの言葉。
2010.03.04
NPB新人研修 木村拓コーチ講義内容
1990年のドラフトで、僕は指名されませんでした。ドラフト外で日本ハムに入団する時に、スカウトから「入ったら横一線だから。プロの世界は自分が頑張って結果を残せば、一軍に上がって大変な給料がもらえる」と言われました。
でも入ってみるとちょっと違っていた。僕はキャンプ初日にシートノックでボール回しをやった時に、「とんでもない所に来た」と思いました。プロのスピードについていけない。ドラフト外というのもなるほどな、これはすぐにやめて田舎に帰らないと、と思いました。
2年目に、一軍にけが人が多く、初めて一軍に上がりました。
3年目は開幕一軍でしたが、ほとんどが守備要員でした。1か月ほどで二軍に落ちて、それ以降は一軍に上がらずでした。3年目のオフに転機がありました。9月末から12月末の4か月間、ハワイのウインターリーグに参加し、イチロー選手といっしょでした。1歳下のイチロー選手に衝撃を受けました。4か月間同じ部屋で、朝起きたらいない。朝からウエートトレーニングをしていたのです。自分はこんなんじゃだめだなと思い、イチロー選手が僕の野球人生を変えてくれた一人になり、感謝しています。
4年目は、1年間一軍にいましたが、守備要員でした。しかしやっと「野球選手になれたな」と思っていたのですが、広島にトレードになった。正直「何でおれが」と思いました。広島は当時、野村、江藤、前田、音、緒方、金本の名選手ぞろい……僕に入り込むすきはなかった。移籍1年目は数試合に出て7打数で安打なし。「これはクビになるな」と思い、「どうやったらここで生きていけるか」と考えました。一軍のレギュラーの中では、セカンドが確か34、35歳のベテランだったので、セカンドをやるしかないと練習するようになりました。
移籍2年目は、一軍を行ったり来たり。それまでは右打席でのみ打っていましたが、左投手の時には代打で出られるけれど、右投手だと代えられる。どうしたら代えられないようにできるかと、スイッチヒッターに取り組みました。自分が生きていくためには必要だと。
プロに入って9年かかって、10年目に136試合フル出場しました。野球選手の平均寿命が8、9年で、自分がそこまで生き残れました。
今、みんなは希望にあふれて「レギュラーを獲って生き残ってやる」と思っているだろうが、必ず壁にぶつかる。そんな時、ざ折してあきらめるのか、そうでないのか、自分で考えないといけない。
自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。
※読売巨人軍公式ホームページより抜粋(部分略)
生き残る為に、自分の可能性を全て試し、なんでもやる。
うまくいかなくても、壁にぶち当たっても、決してあきらめない。
それが、「プロ」。
4月から「プロ」になるみなさん、そして、今までも、これからも「プロ」であり続けるみなさんへ。
天国から、木村拓也さんメッセージでした。
「本田△」は「ほんださんかっけー」⇒日本代表予算との相関性。
2010.03.19|iwamura
本田さん、かっけー。
ほんださんかっけー。
本田△(笑)。
CSKAモスクワに所属する本田圭佑がCLで見事なFKを決め、クラブがベスト8に進出したことから、ネットでは「本田△」の文字が踊っています。
※ネタフルさんより(部分略)
さあそのカッコイイシュート、ごらんあれ!
いや、「矢のようなシュート」ってこういうの言うんだろうな。
過去のシュートもカッコイイぜ。
彼の活躍により、オランダ二部リーグだったVVVフェンローは一部リーグ復帰した。
そして、PFC CSKAモスクワがロシア初の欧州チャンピオンズリーグベスト8!
そして日本では18日このニュースだ!
サッカー協会:来年度予算承認、W杯4強進出を想定し
日本サッカー協会は18日の理事会で、10年度予算案を承認した。収入は176億2305万円。ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会で、日本代表が岡田武史監督の目指す4位以内に入ると想定し、4位賞金1800万ドル(約16億2000万円)やスポンサーからの報奨金を盛り込んで「約28億円の収入をかさ上げした」(田中道博事務局長)ため、前年度より15億円近く膨らんだ。
【安間徹】
※毎日jpより抜粋(部分略)
さあ来ましたね!
ワールドカップイヤー、日本のサムライたちも、捨てたもんじゃねえよ。これ仕事頑張れるニュースだよな!
浅田真央/中山雅史動画~ムキになるひとびと。
2009.12.30|iwamura
と、いうことでみなさん今日はもうお休みですよね。
そんな暮れでありますが、元気になる動画を3本。
まずは浅田真央さんの全日本優勝動画。昨今、苦しんでたみたいだったから、感服。拍手の演技でした。
このヒト、よく悔しそうな、ムキになった顔するんだよな。それが美しさ。
「天才とは?」の質問に対して、「練習しなくても上手にできる人だと思う」と答える19歳。
練習の積み重ね、必死さが、彼女の美しさですね。
さあそして、40代代表、我らが中山雅史センシュ!
このひとも、「ムキ」になるんだよな。それが好きで。自分のゴールしたボール持って、センターサークル帰ったり、骨折しても試合続けたり。
「ぼく自身がやれることが、若い選手にできないはずがないんです!」
テメエら見てろよコノヤローと。カッコいいぜ!
さて、そして20代代表と言うか、30代にはリアルタイムに懐かしいとんねるずさんの20代時代の動画。
これもいいよな。「ムキ」になってるトコ、好きなんだよな。しかし久々にこれはアドレナリン系動画だ(笑)。
※以上 久々のTVウォッチBlogさんより
30を過ぎて、毎週続けていた10キロランと、1キロスイム、筋トレのセットメニューが、今月ついに崩れた。
来年の目標。「忙しい」を口に出さず、仕事も私生活の決め事も、「ムキになって続ける」こと。
歳なんて関係あるけど、一流には一切関係ないぜ!タイマン張ってやろうじゃねえか!な30日。
今年もあと2日。2010年もよろしくお願いしますね(笑)。